北会津村誌 -204/534page

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思わせるように、ほぽ方形に土堤があり、四周に堀が週っている。神社が、この境内に南面して、しっくりと鎮座している形からは、やはり館跡ではなく、最初より神社境内として構築したものと思われる。旧鶴沼川は村東をも放流して十二所新田の西か、本田の村の方にも向った跡があり、その点から宮袋は見事な中州、或は輪中と呼ぶにふさわしい、川の袋の中の地形にあり、もしや宮袋という村の名は、中州を袋にたとえ、富土神社の森を中心に発達したのではないかと思われる。
 宮袋より鷺林や寺堀に行くのには、この旧鶴沼川跡の河原を渡らなければならなかった。現在もこの辺の早稲田という字を、俗にとうせんどうといって、昔、鷺林に通じる舟渡場があったと伝えていることでもうなずかれる。
 寛文五年(一六六五)の書上げをみると「家居乱にして図何れの形とも記し難し」とある。そして、端村を古屋敷としている。古屋敷という古い中州に、鎮守を祭って住みついた村は、既に開拓が進み、その東南の館越や新屋敷の膨張には追いつけなくなっていたかともみえる。新屋敷は単に荒とも荒屋敷とも呼んだらしく、鶴沼川沿いの橋場に近く、洪水のまともに押切ってくるさまがみえるように、西南面に石垣を並べた洪水よけの屋敷造りが並んでみえる。
 明治三十年頃、部落の近郊を開田、床下げをした際、井戸石や、いろりばた石が、その住居の形を備えたまま出土したことがあったと、古老は語っている。その物を実際に見てないので確認はできないが、今和泉南のような弥生期のものではなく、近年まで洪水に荒された旧屋敷跡の遺跡ではないかを思わせる。
 村の東南部の相当広い地域に、十三仏、或は十三壇とよぶ、大小ほぼ十三ほどのだんくらが散在している。古風土記には十三仏河原とみえる。墓地跡か、十三仏信仰などにより構築されたもののようにもみえるが、もとも

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