北会津村誌 -215/534page
寺堀の毘沙門天像 原、雑木林になって、まだ残っている。てっせんと呼ぶ風車のような、きれいな花をつける湿原植物が生えることは、自然の湿原植物の項で述べた。これを南にたどっていくと、今は地下水面が下ったか、清水もあまり湧き出ず、さらに近く耕地の構造改善によってかまぬまの湿原ともども姿を消すであろうと思われるが、もとは毘沙門洞という湧水の深みがあったという。ここに、洪水の際に流れついたのが、現在村中に祭られている雷電山真言宗豊山派多門院の毘沙門堂に安置してある御丈一メートル、即ち丁度三尺三寸にきざまれた毘沙門天であると伝えている。
古くは御堂が二層になっており、その下層が先年焼失した東麻生の地蔵堂であったなどというから、中の仏像の華麗さなどと思いあわせると、逢かに大きな御堂であったかも知れない。寄せ木造り、布張りして漆をかけ、金泊をおいた部分が、あまりはげ落ちないで残っているところをみると、どうやら泥沼に流れついたというのも単なる伝承かと思われる。しかしこのことは寛文五年の書上げにみえているから、新しい伝承ではなさそうである。承応二年(一六五三)に円説という僧が再興したという多聞院も既に失われている。
墓地には見事な五輪の塔が何基か並んでいて、この中には天和三年(一六八三)、貞享三年(一六八六)のものなどがみえるから、円説が多聞院を再興した頃は、村の名が寺堀となづけられていることからも、毘沙門天の