北会津村誌 -216/534page
寺堀の多聞院吉祥寺跡と毘沙門堂 信仰も厚く、寺も、村も、相当栄えていたことを思わせる。
2、富士神社と村の発達 多聞院がほぼ村の中央に、湿原をさけてあることから、村の発達と村の起原をあわせ考えて、村の発達はこの寺院であったかとも思われる。しかし村の西北に見られる富士神社の境内も、水害地のためかと思うが、四周を土堤で囲んだ立派なものであった。寛文五年の書上げには富土せんげんとあり、貞享二年の書上げには富士権現とあるから、多聞院とも不可分な、修験の掌る、神仏混稀の権現が祭られていたものかと思われる。寛文五年には家数二一、その他に村東四町ほど隔てて、新田が一戸、男九人、女六人、馬三匹とあるから、相当大きな世帯の家があったように記されている。文化六年の風土記には、既に廃すとあって、明治維新前に既に早く失われている。
寛文五年には田が一七町一反、畑が七町二反とあるが
寺堀墓地の古い五輪塔