北会津村誌 -226/534page
に出雲河原と云処あり。
○旧家 総左ヱ門 関出雲守が末葉にて、後農民となり、享保の頃(一七一六〜一七三五)まで出雲守が館跡に住せしと云。家に槍一筋を伝う。
○褒善 忠義者八右ヱ門 寛政六年(一七九四)褒賞して米を与えり。
八、鷺林村
1、養水碑 寺堀・鷺林・本多にかけて、一聯の見事な対角線状の中州がみえる。百騎沼伝説は北会津村に伝わる下荒井の三鈷の松伝説と双対の有名なものと思われるが、何れも扇状地末端の河畔・湧水・湿地などに関聯があるのは、土地の成因と結びついていて面白い。寺堀の西縁から、鷺林の村西を走る低湿地は、岩崎より西北に向った旧鶴沼川の放流した跡と思われるが、蓼川は今和泉付近の湧水が水源となって、百騎沼の大湧水、湿原をあわせて立派な河川に育ってゆく。
寛文五年の書上げに、既に「彼沼古大きなりといえども、今わずかに周り六十間」とあって、沼も四周の開拓により縮小されていたようである。下荒井より鷺林に通じる新道は大正六年秋より翌七年の春にかけて改修されたものであるが、現在も旧百騎沼の輪郭が、鷲林より本多につづく中州の段丘地形が目立つので想定でぎる。この湿原を横ぎる古い道路はよほど難渋であったろうと思う。
この両側に扇状地末端の湧水、河川跡の湿地を持ちながら、部落民の耕す中州の丘上に水をひくことは容易でなかった。この養水の苦労を如何にして解決してきたかを、村中の養水碑がよく物語っている。後に全文を掲げてみるが、難文であるから、大要を解説してみると、寺堀・鷺林・本田の三部落の養水は麻生・館野などに発す