北会津村誌 -227/534page
る七つの清水からとっていたが、涸渇の心配があるので、文化の初年(元年が一八〇四)岩崎堰からも引き入れるように文化六年(一八〇九)に部落長が代官に願出た。その後大早害があり、文政二年(一八一九)いくらか工費を納めて分けてもらっていたが、苦しくなったので弘化三年(一八四六)部落長が代官に願出た。明治六年(一八七二)村長が県庁に願出て、いろいろの問題があったが、二十三部落が漸くまとまって、負担の人夫二四〇人、費金壱円五拾銭で、積年の困難が解決したというように読みとれる。
笄水碑(けいすいひ)
排難就易有常経不能違為会津郡寺堀鷺林本田三邑養水七清水曾無涸
渇憂七清水発源於同郡麻生館野等七処故名為岩崎剰流注養水故文化
初以分頭法補助工事堪累同己巳邑長具状代官某請絶関係検地某臨検
認実課工費四之一僅存堰下名義先是丙寅大早害沢皆涸渇養水無異状
文政巳卯以年賊納法借官米未糶之得金若干納官為之資利子充工費然
以有限服無限困苦難堪弘化丙午時邑長継前長遣志訴代官某恵与金若
干僅救困苦維新後物議復起明治癸酉時邑長具状県庁請除堰下名義県
庁内諭協議而議不協至同戌議漸熟二十三邑長総代与三邑長総代相会
議決負担人夫二百四十費金壱円五拾銭茲積年煩累困苦漸解始復常経
云爾
明治三十一年八月 安東恭斉撰
長岡寛裕書
鷺林中央の笄水碑