北会津村誌 -232/534page

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 鷺林村
 府城の西に当り行程一町十八間、家数三十九軒、東西一町三十間、南北二町三十間、四方田圃なり。東一町三十三間、今和泉村の西に至る。其村まで四町。西七町宮袋新田村の界に至る。其村まで十二町二十間余、南二十四間寺堀村の界に至る。其村まで巳に当り三町余、北五町下荒井村の界に至る。其村は寅に当り、九町二十間、又未の方一町三十七間、宮袋村の界に至る。其村まで六町余、戌の方七町、十二所新田村の界に至る。其村まで十町三十間余、亥の方七町、本多村の界に至る。其村まで十町余。
 ○山川 蓼川 村より三町丑の方にあり、今和泉村の村より来り丑寅の方に流るること八町三十間、本多村の村に入る。広さ七間計。
 ○神社 八王子神社 境内東西二十五間、南北三十四間、免除地、村東四十間にあり、鎮座の時代を知らず。祭神は大己貴命なりと云。鳥居あり。下荒井村坂内備前是を司る。相殿二座、伊勢宮、本村より移しき。福神、同上。
 ○寺院 西福寺 境内東西九間半、南北二十四間、年貢地。村中にあり。延命山と号す。何れの頃にか、此村の地頭荒川大炊助某と云者草創し、宥興と云僧を請て住せしめ、慶長二年(一五九七)宥宝と云僧住せしと云。真言宗下荒井村蓮華寺の末寺なり。本尊地蔵、客殿に安ず。
 ○古跡 百騎沼 村北三町十間にあり、昔石川氏(諱を伝えず)一盃館(本多村の境内に遺跡あり)に拠りしとき、月夜に兵を出せしに、折しも蕎麦の花盛りにて、路上面に水色の如く見えしかば、百騎の兵一同に此沼に駆入溺死す。因て名づけしと云。寛文の頃(一六六一〜一六七二)までは周六十間計ありしと云。今は葭多く生じ、形僅に残れり。此辺より往々鎧、草摺のくちたるを掘出す事ありとぞ。旧事雑考に或説を引き、貞和五年(一三四九)会津小松合戦と云は此時の事なるべしと云へり。
 ○褒善 忠義者伊右ヱ門、安永二年(一七七三)米を与て褒賞せり。

本田村およぴ本多新田村

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