北会津村誌 -233/534page
1、一盃館と村の発達 百騎沼西縁の中州段丘はやや高度を下げて本多村の東部を過ぎて菅原神社の境内付近に終っている。この段丘の北辺を百騎沼大湿原よりつづく蓼川が洗うようになる。
この菅原神社境内の地形が、昔のままであったとは決して思えないが、南の一辺だけが短い、梯形の敷地で、文化六年の風土記には東西二二間、南北一七間とあるが、土堤内で北辺の東西が現在ほぼ一二間ほどあるようにみえた。四周に土堤跡と、その外縁に堀跡も残っており、古くより伝えるように、館の構図である。菅原神社の位置・配図はこの館の構図とはあわないので、後にこの境内に遷宮したと思われる。これを一盃館と呼んだのは四周の低地・湿原に浮び出てなづけたものなのか。ここに石川某が住み、百騎沼伝説が「会津旧事雑考」にひかれているように、貞和五年(一三四九)の会津小松合戦にまで結びつけると、南北朝頃になって、下荒井の芦名の臣富田某の築城とも結びつけて無理がなく、興味深いものがあるが、裏付ける資料は充分とはいい得ない。
寛文五年の書上げには単に天神と記して、貞享二年のものも単に天神であるが、これに十二所新田より十二所権現を移して相殿としたことがみえる。やはり天神もここでは権現として古くは修験が祭っていたものかとも思われる。
寛文五年のものには、既に十二所新田につづく家二二軒が本多村の本村として記し、その東北に一四軒の端村古屋敷があるとみえる。これはその名のように、古くは古屋敷の方が、一盃館から、百騎沼につづく配図、地形からみて本村であり、西の低地に延び、さらに十二所新田と同じように、鶴沼川の氾濫地を開墾して、本田新田にのびたものと思われる。
本田新田も、十二所新田と共に対岸の和泉新田、新屋敷新田と同じく、蒲生の元和時代、西方の豪族山内系の開拓新田と思われるが、鶴沼川が佐賀瀬川の放流、赤沢川の流入などで氾濫常なく、寛政二年(一七九〇)水災