北会津村誌 -239/534page

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十二所の十二所権現
十二所の十二所権現

 一〇、十二所新田村
1、新田開発と村名の起源伝承 旧鶴沼川が濁川・宮川と合流して放流した河跡は相当幅広いものである。旧鶴沼川が現在の大川流域に固定してからは、この河跡の河原地、谷地は逐次開墾されてきたが、特に世の中の兵乱の落着いた、蒲生時代の元和末(一六二三)頃からは、会津藩としても、いろいろな恩典を与えて、藩の実高を増すためにも、新田造りを積極的に奨励したようである。その一連たるものがこの鶴沼川流域にみられる。
 十ニ所新田という名は、その新田部落の十二番目につくられたのによるなどの口伝もあるほどである。恐らく新田の守護神として十二所権現を祭ったことによると思われる。この権現は一時本多の天神宮に相殿として併祠されたことがある。しかし、恐らくもとの境内であろうと思われるが、現在秋山喜次久宅に個人の祠のようにされている十二所権現は、一連として村の開発の守護神ではなかったろうかと思われる。明治十二年にそれまで十二所大権現と呼んだものを十二所神社と改めている。檀那寺は本多と同じく本泉寺である。
 この十二所新田は和泉新田、新屋敷新田と同じく、本多新田も同系統かと思われるが、何れも祖を横田・西方方面の山内一族に属し、蕎麦目に一

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