北会津村誌 -253/534page
につづく、北会津村の中央を、やや東南より西北に走る最も幅広い中州地帯がある。その末端の湧水地帯が早く開拓されたと思われるので、下荒井より荒田・中里・石原・田村山・館・宮の下辺の一群は、それぞれにも、さらに小湧水を加えて、決して新しい村とは思われない。
寛文五年書上げには、既に荒田村となっているので、宮の下村八幡宮の応永十年(一四〇三)の棟札に「会津西十二村内下荒田村」とあるのに対して、上荒田村と呼んだのは何時頃までであろうか。口碑ではこの上荒田村は会津郡の五荒田の一つなどともいい、古くは宮の下村も下荒田村といったことは、先の棟札でもわかる。さらに中古、天正の頃(一五七三〜一五九一)相沢村ともいったと、村の古老が伝えているが、その確認は容易でない。天喜五年(一〇九七)の塔寺八幡宮修造にみえる荒田村も、果してこの荒田村であるかは、証するにもっと裏付けを必要とするようである。
寛文五年の家三四軒とあるのは、散在するものをまとめていっているようであるが、文化六年の風土記には本村が六軒で、その北に北村というのが六軒あり、東南に二軒の深屋敷というのがあって、計一四軒が荒田村となっている。端村ではなく、やや集団が離れているだけで、一つの村として生活してきている。荒田という地名が他にも多く見えるところから、古く荒蕪地を開墾して村造りをしたのによる名称かとも思われるが、安良田と書いたこともあり、地名起源も確実にはわからない。
村東に館のあったことも記載されているが、文化六年風土記には、既に形がなかったとあり、下荒井の富田の城の出城のような小さなものが、扇状地の中州ののびた末端にあったのかとも思うが、よくわからない。館の内の小字はのちのちまであったようである。
2、熊野神社と東泉寺 北村の西端に熊野権現があり、これを現在熊野神社と呼んでいる。相沢村と呼ばれた