北会津村誌 -254/534page
天正の頃(一五七三〜一五九一)相沢七右ヱ門盛宗が地頭であったが、その尊信が厚く、宮田と呼ぶ田圃を、社領としてもち、神事・祭礼も整っていたという。この地頭を栗村三郎朝長であるとも伝える人がある。葦名時代のごく末期で、会津盆地の村々の館が、無住荒廃するのもこの頃かと思う。
同じく北村の東端に真言宗多光山東泉寺がある。開基僧を隆興といい、上荒田村隆興院として一三カ村の首村であり、地頭は栗村三郎朝長で、その菩提寺とも伝えるから、やはり熊野権現を祭っていた修験の開いた寺院のようにみえる。部落の発達自身荒蕪地、荒田の開墾であり、古くは東泉寺隆興院も、熊野権現と全然別個のものとは思われない。寺田は現在は二二歩に過ぎないが、もとは一町歩余あり、そこを深屋敷といったという。その後明応五年(一四九六)雄賢という僧が住んだことが風土記にみえている。本尊は大日如来で、御丈は二八セソチしかないので、天和三年(一六四三)十二月二十四日、貞享二年(一六八五)十月十五日付の開眼供養の書類などと較べてみて、御本尊も古くから一貫して安置されてきたものかどうかわからない。家数は寛文五年の三四軒に対して、文化六年には一四軒と、半減をさらに下廻り、現在一八戸の農家、その他三戸と二一の世帯に増加はしているが、古い神社・寺院全盛時代の面影は失われているではないかと思う。
熊野神社側に蓼川碑という、明治二十七、八年の早魅で困窮して、蓼川を改修した七カ村の明治三十二年三月の記念碑がある。神社境内に
荒田蓼川用水碑