北会津村誌 -258/534page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 荒田村
府城の西に当り行程一里十八町、家数六軒、東西一町三十間、南北二十四間、又北の方三十間に一区あり。北村と云。家数六軒東西十二間、南北四十二間、巳の方四十間余に一区あり。深屋敷と云。家数二軒、東西一町三十四間、南一町八間、共に下荒井村の界に至る。其村は戌に当り六町、北二町四十九間、田村山村の界に至る。其村まで七町三十間、又亥の方二町十二間、館村の界に至る。其村まで六町。
 ○山川 蓼川 村西六町にあり。本多村の界より来り、北に流るること二町十間余、宮下村の界に入る。
 ○神社 熊野宮 境内東西九間、南北十三間、免除地。北村にあり。鎮座の時代詳ならず、鳥居、拝殿あり。宮下村渡部出羽が司なり。相殿二座、稲荷神、本村より移せり。湯殿神、同上。
 ○寺院 東泉寺 境内東西十九間、南北十間、年貢地、北村にあり。真言宗山号を多光山と云。開基の僧を隆興と云。何れの頃の創立と云事を詳にせず。明応五年(一四九六)雄賢と云僧住し、下荒井村蓮華寺の末寺となりしと云。本尊大日客殿に安ず。
 ○古跡、館跡 村東一町三十間にあり。今は畠となり、其形なし。字は館内と云。何人の住せし跡なるや詳ならず。
 ○褒善 忠義者権之亟、延享二年(一七四五)褒賞して米を与えり。

 一三、下荒井村およぴ平田村
1、古城跡について 下荒井村の現在のような東西に走る主要道路に、地割りをして村をつくったのは、柳津南の軽井沢に銀山が発見されて、元和初年(元和二年〜一六一六頃)、蒲生秀行が銀山街道を、城下若松より新鶴村佐賀瀬川を通って軽井沢までつくり、その宿駅にあててからの形の変化である。
 もともと付近の地形は大川却ち旧鶴沼川の扇状地で、南北に走る中州をなしている。村も恐らく南北に走る道路に沿うてできたろうと思う。その北端、現在小学校敷地になり、一時中学校、村役場の置かれた地域に、古い

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県北会津村誌編纂委員会に帰属します。
福島県北会津村誌編纂委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。