北会津村誌 -260/534page

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下荒井西の大壇
下荒井西の大壇

ている。
 寛文五年の書上げには本丸が方二八間、二の丸は東西二町一八間、南北五九間、三の丸は東西四八間、南北一九間となっている。しかし何年ともたたない貞享二年(一六八五)の書上げには異なった数字が掲げてあるので、書上げ記録は後に掲げ、ここでは大体寛文五年の書上げで、大要の復元図をつくってみた。八幡前などの字名が残っているのは、築城に際して三の丸西北隅に八幡神社を、耶麻郡叶荘八幡から、下荒田即ち今の宮の下の八幡神社と共に勧請したのによる。寛文年間に熊野神社に合祀して、現在は村南の森にある。
 三の丸の東北隅に稲荷神社も祭られていたことが記録にみえる。
 富田氏は安積郡と二つの城をもっていたことがあるが、天正十七年(一五八九)伊達政宗の来攻による葦名の減亡と共に影を失ったことになる。
2、蓮華寺、その他の寺院の興亡 下荒井の荒井は扇状地末端の清水の湧き出る所についた名であろう。扇状地の開発は、他の多くの例をみると、末端から、漸次扇面に及んでいるから、明確にはわからないが、下荒井・中荒井・上荒井と、上の方に及ぶかと思う。旧鶴沼川が現在の大川の位置に荒れ川として放流、固定したのは、「会津旧事雑考」などによると応永二十六年(一四一九)の洪水以後と思われる。下荒井という部落は、築城が既に元徳元年(一三二九)であるから古く、部落の起りはさらに古いかも知れない。

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