北会津村誌 -261/534page
その大川の、佐野川などといった、小さい川であった頃の下荒井村は、現在会津若松に含まれている小見、如来堂に及んでいたことが、寺院の壇家関係などをみてもよくわかる。西は本田境の百騎沼の湿原の西川原に及び、北は白山清水の南岸までつづいていたことは、中州の段丘地形をみても想像される。
下荒井で由緒の深いのは松命山蓮華寺で、もとは、現在の川崎部落の北方三〜四〇〇メートル付近にあったと伝えている。葦名直盛が康暦元年(一三七九)会津下向の際、富田の一族である仁範という僧をともなってきて建立させ、最初は松命山清浄院蓮華寺といったとある。真言宗山城国醍醐報恩院の末寺であった。
これには三鈷の松の伝承がついている。或る時老僧が蟹川のほとりに来て休んでいると、その対岸に釣糸を垂れていた老翁があって「御坊はこれから何処に行こうとしているか」と尋ねた。その老僧は「宿願あって高野山に詣でるところだ」と答えた。時に老翁が
高野山よそにはあらじ 下荒井
三鈷の松の法の朝風
と一首を詠じてその行を留めたという。三鈷は仏具であるが、松葉の三葉にかけている。「その松はどこにあるか」と反問したら「それは御坊の寺の境内にある。以後寺の名を松命山清浄院蓮華寺というがよい」といって姿を消したという。その老僧が仁範であるという。このことは新編会津風土記にものっている。天正十七年(一五八九)伊達政宗の来襲の際兵火にかかり、文禄中(一五
下荒井蓮華寺境内の三鈷の松