北会津村誌 -267/534page
村南の森の一廓、東西二五間、南北四〇間の境内に祭られている熊野神社も、下荒井築城の元徳元年(一三二九)に奉遷されたと伝える。御神体は伊弉那美命の木像であるが、背後に「宝寿寺住持 釈参国 花押、永享二年(一四三〇)庚戌季七月」の墨書銘がある。喜多方市慶徳の熊野神社の木像も室町期のものとされているが、ほぽ同時代に相当する。富田五代掃部祺祐が応安元年(一三六八)熊野神社再建とあるから、その後の奉祀の木像である。
この社司は坂内家で、同社の南、今の中荒井村分にある宮在家に神主・社僧共に居住していたらしいが、蒲生秀行が銀山街道に下荒井駅を設けた際、村中に地割して移った。
ここに八幡宮が奉遷されたことは述べたが、寛文年中保科正之の命により、神仏分離、合祀などが行なわれた際、服部安休が神宮二座、天神一座なども一緒にし、ごしゃ即ち五社の合祀社地ができた。
4、馬市と銀山街道 下荒井の南方二五〇メートルぐらいの所に、馬場川原というのがあり、これは城の馬場で、蒲生時代から馬市が立っていたと下荒井旧記にある。
一、古来馬市立つ、宰相様御時代には、御前様御知行所にて、その時代より市立つといい伝う。駒口銭といい金壱分に七文宛買主方より出す。御主杉田新兵衛殿御預り、甚五郎と申す仁、市日に参り取立つ。
一年に四、五貫ばかりこれある由いい伝う。その時より御郡中にて雑駄売買仕らざる様仰せ付けられ、脇郷にて陰売買これあらば、当村の見付け次第馬を引き取り侯様仰せ付けられ候由。
一、加藤式部少輔様御代になり候ても、馬市先規の如く仰せ付けられ候、駒の口銭、先例の如く、当所の者共取立て、壱年に五貫文ばかり宛御代官へ差上げ候処、当所にて馬市立ち候へば、困窮仕様に相見え候由、守岡主馬之佐殿五十四年(寛永九年-一六三二)に坂下、高田へ御引きなされ候、就いて当所の者共迷惑致し