北会津村誌 -268/534page
御訴訟仕り候様は、只今まで駒の口銭五貫文宛さし上げ候へども、以後は京銭十四貫文上納仕るべく候間、馬市仰せ付け下されたき由、御訴訟申候へども、御承引なされず、両所へ仰せ付けられ候といい伝う。馬市立て始めの年暦不詳。
とあるが、塔寺八幡宮長帳には元和五年(一六一九)九月二十九日と明記してある。
下荒井部落が、南北の地形に沿うて発達した形態が、今の東西の街村形になったのは、蒲生時代に軽井沢銀山が開発され、その宿場駅として、東西の街道に沿うて地割がなされたためである。その地割の詳細は今わからない。分家、新移入者は、この新銀山街道に沿うて発達してきた。その宿駅の様子の一斑が肝煎荒井家所蔵文書、高札などによって伺われる。
定
御定 若松迄 下荒井
一、本 馬 八拾文
一、軽 尻 五拾四文
一、歩 夫 四拾文
売荷
一、並 百七拾六文 内 弐拾壱文 蔵敷
一、並 刎 弐百拾八文 内 右同断 同
一、歩 持 弐百文 内 右同断 同
逆瀬川迄