北会津村誌 -271/534page
平田の延命地蔵尊 であるが、古い村のまとまった位置はどこか、はっきりしない。それは蓮華寺跡というのが川崎村の北にあったり、五重塔跡が村北にあり、その中州段丘が白山清水の南までつづくところをみると、城廓、寺院に幾変遷があったように、村の位置・形態も変っているようである。
寛文五年の書上げは詳細をきわめ、つづいて貞享二年の書上げがあり、当時九一軒、一一八竈とある。馬も三二匹いたから、宿駅としての特色、当時寄留者なども多く、馬市が立ち、富田家全盛時代につづいて、村の再繁昌の期であったかと思われる。その記録は再述をさける。
幕末に近い新編会津風土記にある文化六年の家数は六三とあり、銀山の衰徴と共に、宿駅の衰退がみえる。
明治になって、村役場・小学校がおかれ、地方の中心集落となり、やや繁栄をもりかえした観があるが、宿駅は既に遠く去り、純農村として、村
百騎沼東に残る村跡の石碑一基