北会津村誌 -277/534page

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一町三十七間、四方田圃なり。村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。東二町三十四間、蟹川村の界に至る。其村は辰己に当り八町、西八町四十四間、本多村の界に至る。其村まで十町三十間。南三町五十一間、今和泉村の界に至る。其村まで九町。北五町五十三間、中里村の界に至る。其村まで九町、又戌の方七町二十一間、荒田村の界に至る。其村まで八町。
 ○小名 宝寿、本村の北五町五十間にあり、家数三軒、東西一町二十間、南北二十間、寛政五年(一七九三)宝寿院の住侶本教と云僧、本村及び田村山村の境内を新墾して民居を構えき、文化二年より宝寿と称し、本村に属す。
 ○端村 平太屋敷、本村より六町二十間戌亥の方にあり。家教五軒、東西四十二間、南北四十八間、四方田圃なり。
 ○山川 清水、小名宝寿の南にあり。東西一町五十間余、南北九間、白山清水と云。小魚多し。下流中里、石原、田村山三村の田地に灌ぐ。
 ○水利 思鑿堰、中荒井村の方より来り、田地の養水とし、中里村の方に注ぐ。
 ○倉廩 米倉、村中にあり、本組の米を納む。
 ○神社 熊野宮、境内東西二十五間、南北四十間、免除地。村南五町十間にあり。勧請の年月詳ならず、鳥居、幣殿、拝殿あり
相殿四座、伊勢宮二社、共に本村より移せり。八幡宮、同上、天神、同上。神職坂内備前、宝暦中(一七五一〜一七六三)左近某と云者神職をつかさどり、相続て今に至りき、左近は今の神職清高が祖父たりと云。
 ○寺院 蓮華寺 境内千三百六十二歩、免除地、林中にあり。松命山と号す。山城国醍醐報恩院の末寺真言宗なり。開基の僧を仁範と云。紀州の人にて初鎌倉雪下に住し、董名直盛の勧により此地に来り。康暦元年(一三七九)に此寺を建立し、令傾けども願心やまず、高野に詣で、臨終を遂げんとて旅装を催し、杖に扶けられ蟹川に至る。岸上に垂釣の翁ありて、いづくに往くと問う仁範宿願の由を語れば、即「高野山余処にはあらじ下荒井、三鈷の松の法の朝風」と云和歌を詠じて其行を留む。仁範怪て其松何れにありやと問えぼ、汝が寺の境内にあり、是より汝が寺を松命山蓮華部寺清浄院と号すべしとて其形見えず。仁範奇異の思をなし帰て其院中を見れば、其松正しく三葉にして三鈷の称にかなえり。此松年を経て枝葉繁茂せしが、早乙女不浄衣を其枝にかけ

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