北会津村誌 -278/534page

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しにより乍ち枯れ失せぬ。其地に又自然に一根三茎の松を生ぜしとぞ。其後何れの頃にか水患を避け、今の地に移れりと云。(遺址今蟹川村の境内にあり)。昔は繁昌の寺院にて塔頭も六坊あり、天正己丑(十七年−一五八九)の兵燹に逢て次第におとろえ所々に移り、今猶此寺に隷する者あり。文禄中(一五九二〜一五九五)十三世宥明が時、蒲生氏郷の命を受、飯豊山を中興し、即此寺を以て別当とせり。慶長六年(一六〇一)氏郷の子秀行、耶麻郡一戸村にて五十石の地を寄附し、寛永五年(一六ニ八)加藤明成、耶麻郡稲田村にて改附し、今猶五十石を知行せしめ、飯豊神社の別当たり。制札、門外南の方にあり。客殿、十一間に八間、南向、本尊虚空蔵。庫裏、客殿の北にあり十間に四間、観音堂、客殿の南にあり三間四面、東向、もと村北五町二十間余にあり、別当を妙法寺と云。当時の末山なり。寛永中(一六ニ四〜一六四三)に其寺廃せし時、此に移せしと云。会津三十三所巡礼の一なり
昔仁範が行を留めし翁は此観音の形を現せし也と云。鰐口一口あり、径七寸余、越州河内橋立今熊野山元弘三年(一三三三)癸酉九月十五日寛祐と彫附あり。(元弘三年癸酉は正慶二年なり。神皇正統記を按ずるに、後醍醐天皇隠岐国より還幸有て正慶の号を去り、元弘に復せられしは此年六月の事なり、又保暦間記に元弘二年先帝を隠岐国に遷したてまつり、正慶と改元ありしかとも元弘の年号を追う者のみ多かりしとも見えたれば、此器微小なれども、考古の一証に備うべし。)
飯豊神社、安殿の西にあり。
 宝物、紺紙金泥法華経 一軸、飯豊山図、一軸。
 ○蒲生秀行証文 一通其文如左
  会津於分領御知行五拾石奉寄進候全可社務者也。
   慶長六年(一六〇一)十月十八日 秀行 花押
                 飯出山別当坊
 ○加藤明成証文 一通
 ○宝寿院 境内東西十七間半、南北三十七間、年貢地。村中にあり、護命山と号す。真言宗蓮華寺の末寺なり。もとは蓮華寺の院内に在て六坊の一なり。天正の兵燹の後、宝順と云僧、此に移せりと云。本尊地蔵客殿に安ず。

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