北会津村誌 -279/534page
○覚蔵院 境内東西十九間半、南北四十間、年貢地。村中にあり。山号を良翁山と云。真言宗蓮華寺の末寺なり。もとは宝寿院と同じく本寺の院にあり、天正十七年(一五八九)宥雄と云僧移して此処に営せりと云。本尊地蔵、客殿に安ず。地蔵堂、境内東西五間、南北三間、免除地、端村、平太屋敷にあり。建立の年暦詳ならず。地蔵木像長八寸、作者をしらず、修験霜洗院司なり。
○古跡 五重塔跡、村北二十間にあり。旧事雑考に或記を引て、応永元年(一三九四)に供養せしと云。今本郡南青木組北青木村恵倫寺に此村康寧山宝寿禅寺の鐘あり。康安二年(一三六二)壬寅仲呂日と彫附あり。蓮華寺未だ創建せざる以前、既に寺ありしと見ゆ。然れども来由詳ならず。慶長十六年(一六一一)の地震に崩れしと云。今田圃となり、其字を塔内と称う。
城跡 村北にあり、米倉の地、即本丸の跡と云。三十間四方計、東西北に土手を築き、堀形共腰を廻る。北方の堀は田となり、其字を内膳堀と称す。二丸其三面を廻り、東西二町余、南五十間、東西は民居となり、其余は田圃を開く。其北に出丸あり、東西五十間計、南北二十間皆畠となる。二丸と出丸との間の字又内膳堀と云。此より南の方本町の南端に追手口の跡あり。すこしき土手のこり、其辺の字を上城口と称う。葦名氏の時、其臣富田氏(諱を失う)をして守らしめし所と云。何れの頃の営築と云うことをしらず。
大壇 村西四町にあり、高さ一丈余、周二十八間、来由をしらず。
○褒善 文四郎身を売て人につかえけるが、聊の品を与うる者あれば貯いおき、父母のもとにおくれり。其後父はうせ、母は独家にあり、或日暴に病に侵され、危急なる由を告げきたる。文四郎主人に暇を乞い、とく帰見れば、母ははや絶入ければ、文四郎泣々なきがらを掻抱き、終夜肌を以て暖むれば、あくる朝に母の身あたたまり出ければ、薬を与え、免角して蘇生しけり。其後はかかる事もあるべきもはかり難しとて、家に帰り。一向に孝養をつくしければ、明和六年(一七六九)賞して米を与う。忠義者、さむ、此村の農民又三郎妻なり。安永五年(一七七六)同上。