北会津村誌 -280/534page

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 一四、蟹川村および川崎、小出村
1、河原開拓と村の発達 貞享二年(一六八五)の書上げによると「元来下荒井村端郷、二十七年以前別村に成」とある。二十七年前は萬治元年(一六五八)になり、このことは文化六年の風土記にも「万治の頃別村となりし」とある。応永二十六年(一四一九)黒河川が羽黒下で決潰し、以後ほぼ今の大川の流路が固定したようでそれ以前は今の大川は蟹川とか木戸堀、或は下流にいって佐野川などと呼び、現在のように、ただ二つの橋によって若松の城下に通じるというようなことはなく、小見、如来堂付近まで小さな流れを隔てるのみで、下荒井村の地域がのびていたようである。
 現在の下荒井の村中にある蓮華寺と、その創建にまつわる三鈷の松の伝承は、現在の下荒井村にも若い三鈷の松はあるが、実は川崎の北二町五十間余にあったことが寛文五年の書上げにも、文化六年の風土記にみえている。近年の開田で全くその痕跡を失った。
 寛文五年の書上げをみると、蟹川村が本村で二七軒、小出は端村で九軒、同じく上川崎五軒、下川崎九軒とみえている。貞享二年の書上げにはその来由を記して、「往古は上川崎、下川崎之二所に有、今は在所川に成、此所に移一ヶ所に催す」とあり、小出は大川が河幅を増すにつれて、対岸の幕の内、鍛治屋敷が東に避けたのと反対に、西に洪水の災害を避けて移った村のようである。蓮華寺は下荒井に移り、村も独立して、この大川べりに、蟹川を中心として、小出・上川崎・下川崎が端郷として部落を構成し、現在もその名残を止めて一村をなしている。
 しかし上川崎・下川崎の在所の一部が川になって小出の現在の位置に移る時、富士権現も荒伝山宝光院も災害

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