北会津村誌 -289/534page
○古跡 端村河崎の北二町五十間にあり。下荒井村蓮華寺の遺趾なりと云。三鈷の松も此地にありしと云。
○褒善 孝行者半十郎、此村の肝煎なり(享保九年(一七二四)賞して米を与う。忠義者善右ヱ門、寛政十年(一七九八)賞して、同上。一五、礫宮村
1、礫宮の伝承 寛文五年書上げにも、文化六年の風土記にも、礫宮村は五軒で、一貫して独立部落の取扱い をうけ、小出・河崎が蟹川村の端村、鈴淵は二六軒でも長く真渡村の端村の取扱いを受けてきた。この意味はよ くわからないが、村の発達が相当古く、恵日寺下の寺院政治があったようであるから、その信仰の核心となった 磐梯明神に縁起伝承があり、丁重に扱われたのではないかと一応推測してみる。
うやうやしく、昔、磐梯大明神がここへ投げられたという礫を拝したが、もしや、他の地方でもよく祭神とさ れている隕石の類ではないかと思ったが、そうではないらしい。次に、磐梯明神に関連があるので、火山弾の類 ではないかとも疑ったがそうでもない。長さ一八センチほどの、くまいしと呼ぶ黒石で、いくらか異様なひびが みえるので、不明な点もあるが、周囲の磨滅状態からは、やはり大川を流れついた円礫の類の、形の奇なるもの とみられる。
近年石ブームといわれて、奇石を磨いて床や庭に飾る風があるが、これほ古くからあったことで、奇石なるが ために、塚をつくり、神社として祭り、これを磐梯大明神として村人が拝んできたことは、何も珍しいことでは ない。
大川の氾濫が蟹川・礫・真渡の村近くまで及んでいたことは、その地形と砂礫層の分布から容易に頷けるので