北会津村誌 -293/534page
討伐した際、鎌倉権五郎景正が、敵の鳥の峯の矢三郎(弥三郎か)に左の目に矢を射込まれてもひるまず、七日七夜敵を追うて、ついにこの地で仕止めた。その若い勇将金五郎景正を祭って五郎の明神といい、五郎神社と呼んでいたものを、享保四年(一七一九)に正一位五霊神社として祭ったものであるという。この矢三郎は鬼渡神社として、村の東方五〇〇メートルほどの大川の土堤西に祭ってある。榎の大木の下に、現在は蟹川村で祭っている石の小南である。
これはやはり寺院縁起として、史実とは混じないように しておくのがよいかと思う。真渡は寛文五年の書上げなど には真綿と書き、現在は真宮とも書いている。どういう意 味かよくわからない。村中に方二〇問の館があったと伝え る。字名を館の内と呼んでいる。恐らく旧肝煎手代木佐平 の屋敷辺と思われる。
寛文頃まで村東を流れる川