北会津村誌 -296/534page
3、舟渡しその他 つい先頃まで、まだ記憶している人も多かろうが、真渡渡しといって、ぶっかけばしがあ った。上神指に通じる舟橋で、昭和四年頃まであった。蟹川橋が固定橋になる前ほ、この方面からしもロといっ た若松の七日町に出る近道として、よく通った。この舟銭及び舟役銀のことが風土記の書上げにもみえる。
また鮭止めを打ったことも風土記にみえている。下流にダム式発電所が建設される前までは鮭も鱒ものぼった。 これに代る意味でもないが、昭和二十五年から手代木卓偉等が河原、湿地の清水の水温が十六度から十八度くら いと、年中あまり変らないところから、鱒養殖を始め、二十七年に八人共同で、約一〇個ほどのバックをつくっ て、大規模に始め、一五万匹くらいの養殖をしている。これに四十一年八月から、時代の流行に乗り、釣堀の営 業を加えている。
村南に清八壇という三つほどの大きな石くらの壇があるが、これは鈴木清八が河原の開畑、開田をした記念の 壇でもある。苦から北会津村東半が、城下町若松のさえんばとして名があったが、其渡部落は特に集約化して、 疏菜栽培が園芸化して、現在は幾軒かのフレームさえ見えるほどである。4、鈴淵 寛文五年の書上げに、既に二六軒とあって、相当大きな村になっていたが、真渡村の端村となって いて、鈴の社という社はあったが、肝煎も、旦那寺もなく、真渡村に属していた。ただ大竹宅で御用金勤めなど していたことがあると伝えている。旧大川の河筋の思い堀が村の東端を流れ、白山清水の流れ尻が村中を通って あわさるので、水に縁は深く、たえず洪水に悩まされてきたらしい。鈴淵という村の名も、大川にえぐりとられ た淵でも、村端れにあって、付されたものかも知れない。
下部が砂礫層で果樹栽培の適地であるのに気付き、明治二十年頃、大竹宅で大規模な葡萄園を経営したことが あったので、一時は鈴淵は葡萄の産地としても名があった。明治末から昭和の初めまでは、栽培面積が二町歩に