北会津村誌 -302/534page
○古跡 館跡、村中にあり。二十間四方計の地を館内と称す。如何なる人の居りし処と云ことを伝えず。
一七、中里村および白山村
1、徳書院と白山権現縁起 中荒井より下荒井にかけての扇状地の大中州は、末端が白山清水にきて断ち切ら れる。その下流中里・石原・田村山などにある河原は、さらにその下層にくるものであろう。つぎつぎと、上に 扇状地の新しい河原がのってきて、その末端のきれ目から清水が湧き出ることになる。
白山清水は、百騎沼清水の埋められて後は、北会津村に現存する最も大きなもので、やや東南より西北に走り その南岸の下荒井村につづく扇状地末端は、段丘状の地形がよくあらわれ、その縁に沿うて大湧水地帯が横たわ っている。その北側は恐らく近年まで河原が多く横たわっていたであろう。そのことは寛文五年の河原の書上げ をみると、詳細にわかる。下荒井の宝寿院の開拓した宝寿という部落は、白山清水の東部の河原をさけた、表土 のやや厚い地域につくられてあったらしい。
この白山清水は、下流の中里は勿論、石原・田村山・鈴淵方面の用水としても、開拓に重要な関係がある。こ の白山清水の排水口の右岸に近く小祠ながら白山権現が祭ってある。付近を白山河原と呼び、寛文五年の書上げ にもみえるから、決して新しいものではなく、白山清水、即ち泉に関係あると思われている白山権現の信仰と一 連たるものがある。会津の開発には裏日本文化、加賀・能登・越中を経て越後方面より移入されたものが多いか ら、白山信仰も、この付近までのびてきたものかと思われる。北会津村では、清水の湧き出る所によく白山神社 が祭られている。
現在白山の部落は一一戸にも達し、以前は川崎より新鶴村方面への主街道に沿い、現在はさらに下荒井より坂