北会津村誌 -308/534page
一、畑作 大豆、蕎麦、要、羅葡、商売して御年貢の足にす。
文化六年の風土記より
中 里 村
府城の西に当り行程一旦十二町、家数二十二軒、東西二町、南北四十間、四方田圃なり。東一町五十八間、北四町四十六間、共 に真渡村の界に至る。其村は寅に当り四町二十間余、西一町八間、石原村の界に至る。其村まで一町二十間余、南二町五十五間、 下荒井村の界に至る。其村まで九町。
○水利 思ル堰、下荒井村の方より来り、田地の養水とし、真渡村の方に注ぐ。
○寺院 徳善院、境内東西十四間半、南北二十一間、年貢地、村中にあり、山号を延命山と云じ大永五年(一五二五)の建立に て開基の僧を真観云。真言宗、府下大町一桂院の末寺なり。本尊観音、客殿に安ず。観音堂、境内にあり。
○褒善 忠義者 此村の農民宅右ヱ門母なり。寛延元年(一七四八)褒賞して米を与えり。忠義者治助享和元年(一八〇一)褒 賞して米を与えり。一八、石 原 村
1、村のおこり 村の名のおこりについては、寛文五年(一六六五)の書上げ帳にも、由来がわからないと書 いてある。しかし古老は昔石仏と柳原という字名があって、この中の字をとって石原というようになったともい っている。柳原橋という名や、ようご河原が、或は柳原河原ではないかともいい、村の南三〇〇メートル程の所 に石仏・廟所・中屋敷等の字名が残っていて、古くはこの辺に村があり、寺と墓地、土堤の形なども残ってい た。下荒井村の宝寿院の所有になっていたそうであるから、全く来由のない伝承とも思えない。