北会津村誌 -310/534page
保元甲子年二月十二目、開山石沢山薬師寺 久光坊」と書きしるし た石があったとある。それは薬師由来記によると長さ六寸五分、 横三寸五、六分とある。現在もその石という長さ一八センチ、横 一〇・五センチのくま石が保存されているが、文字は既に読みと れない。高さ一六七センチ、横九九センチの立派な須弥殿がある が、これに納められてある、御丈一九、五センチの御本尊は、先 の御本尊が昭和八年、心ない人のため昇空されたので、昭和十二 年四月八日新たに安置開眼したものである。
側の宝蔵院ほ尼寺で、現在の建築物は改築が明治十九年である から、最初の建立の時代推定は困難である。伝承によると、寺院 の位置の移動も考えられるから、相当古い来由があるらしい。た だ薬師堂の須弥殿の組立てが立派で、相当古いものと思われる。
石原の館は現在の肝煎の居宅で、享徳の頃(一四五二〜一四五四)石原刑部信清という者が住んでいたと、新 編会津風土記にもみえている。現在の遠藤一嘉の居宅であることに間違いなく、どうも芦名の家臣の系統と思わ れるが、現在の家系とのつながりを明確にすることは困難である。村に移転があったとすれば、勿論現在の位置 に移った後の館跡である。世襲の肝煎を勤めたもので、相当の文書も残されているが、村の当免定や、縁組に切 支丹類族でない証明、新編会津風土記載録の銀内という孝行者の褒善推せん状の類で、古くからの来由は明らか でない。相当古くからの村で、中世には既に扇状地末端の湧水を拠点として開拓、住み着いていることは想像に