北会津村誌 -311/534page
難くない。
4、村の発達 寛文五年(一六六五)の書上げには、家数が二六、かま どが三三、人口二二六とある。貞享二年(一六八五)の書上げには鎮守大 神宮は田村山へ引宮したとある。古い宮跡が伊勢の宮の小字名に残ってい る。明治になって再び田村山より戻し、村東に天照皇大神宮として祭って いる。その入口の小祠には、しんめいさまが二対収めてある。文化六年に なると家数一〇軒と激減している。その原因はよくわからない。寛文五年 の書上げにほ、関下河原、やくぶん河原、塚の腰河原、ごんげん河原、だ い河原など、村の周囲にいくつもの広い河原が横たわり、村の西南には白田 の中に狐穴があって、年々子狐を産んでいたと記録してあるほどであるか ら周囲には雑木林、葦谷地などもたくさん残り、清水も広く湧出ていたよ うである。しかもその頃既に田一六町余、畑五町余が開かれ、二六戸の家 並みがあったとあるから、既に農業開拓では過飽和の人口が住んでいたか にみえる。次々と廃屋ができ、その潰れ屋敷と思われるものも、今に残っている。
大正十年より始め、十二年に耕地整理の完成した時の耕地面積は水田一 五町、畑一一町とあって、水田は三〇〇年間増加どころか、いくらか減じ てさえいる。専ら開拓は河原地などを畑に開墾することがなされてきた。