北会津村誌 -312/534page
戸数は明治三年一二軒、人口六二人、この戸数は大正末でも一二戸 現在白山沿いの戸を含めて、漸く一四戸ということになっている。
5、郷士の帰農 もう一つ書き加えておかなければならないものが ある。それは旧地方(じかた)の家格のあった高津宅のことである。明治三年十 月十八日に帰農を願出て許され、石原村の一農家に含まれるようにな ったが、地方は在郷の武士で、戊辰の敗戦による会津藩の斗南移封の 際、高津家はやはり斗南藩に移っている。すぐ廃藩になり、石原村に 帰っているが、その時の藩よりの当主高津小源太の拝借高は田高一六 石二斗一升二合、畑高五斗四升三合とある。宗派は城下の東黒川南町 分、浄土真宗西龍寺に属している。
何時頃より石原村在住となったか、明らかでないが、もとは田村山 村分に居宅があり、後に石原村の西南の湧水のほとりに居宅を移した とある。会津藩直属の郷士であり、当時郷士制度というほどのものは 確立していなかったようであるが、このような郷士が、地方農村に在 住していたことは注目される。
次に寛文五年(一六六五)と貞享二年の書上げ帳の写しと、新編会津風土記の記録を再録しておく。付 寛文五年の書上げ
石 原 村