北会津村誌 -315/534page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

一、同村へ山守給金として代四百匁計年々出。
一、沼山へ代百五拾文宛年々出、かくまを取。
て蟹川村へ代五百文宛年々出、大川舟橋渡る。
一、家職 縄、筵、かます、田畑稼し間に仕出。

文化六年の風土記より
    石  原  村
 府城の西に当り行程一里十八町、家数十軒、東西二町二十九間、南北一町一間、四方田圃なり。東は村際にて中里村に界う。其 村まで一町二十間余じ西一町五十二間、田村山村の界に至る。其村は戊に当り三町、南二町二十八間、下荒井村の界に至る。其村 は辰巳に当り十町三十間余、北二町二十二間、真渡村の界に至る。其村は寅に当り十二町四十間余。
 ○寺院 宝蔵院、境内東西十五間、南北十四間半、年貢地、村中にあり、山号を石沢山と云。下荒井村蓮華寺の末寺真言宗なり 康保元年(九六四)久光坊と云者草創せりと云。本尊不動、客殿に安ず。薬師堂、境内にあり、堂中に小石一を蔵む。形楕にして 長六寸計、寛文四年(一六六四)盂蘭盆会に村童松火を焚んとて石を集めし中に此石あり。康保元甲子年(九六四)二月十二日、 開山石沢山薬師寺久光坊と書附ありしと云。今は文字さだかならず。
 ○古跡 館跡、村中にあり。肝煎の居宅となり、享徳の頃(一四五二〜一四五四)石原刑部信清と云者任せしと云。
 ○褒善 孝行者銀内、延享三年(一七四六)褒賞として米を与えり。

  一九、田 村 山 村

1、景勝清水と産清水 下荒井村ののっている大中州の末端が白山清水の南経で一応終るが、その中州の西部 はうねうねと、平田・荒田両部落をのせて、石原・田村山・館の南縁までのびている。そして、やはりその外縁


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県北会津村誌編纂委員会に帰属します。
福島県北会津村誌編纂委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。