北会津村誌 -316/534page
の、さらに古い扇状地の河原地との間にいくらかの高低差をつくり、そこに湧水地帯が、北に向いて半円状にと りまいている。石原村などは、早くこの扇状地末端より、その湧水地帯を越えて、その北側の古い、下部の扇状 地面に下りて村造りし、白山清水を用水に使っている。そして耕地整理の際、この湧水地帯のしみずか即ち湿原 は埋められて、現在は殆ど跡を止めないまでになっている。
田村山南より館の村境に至る湧水地帯は、湿原・谷地の規模として は、白山清水にも匹敵するほどの広さをもっている。この大湧水地が 二ヵ所あり、一を景勝清水、一を産清水といって、来由の浅くない、 古墳時代の繁栄をもつ田村山部落も、その清水に関聯があったではな いかを思わせる。
平田方面よりのびた上層の扇状地は、末端の景勝清水の南崖では、 全く薄皮まんじゅうにふさわしいほど、表土は浅く、下部に厚い砂礫 層があって滞水を湧出させている。上杉景勝が慶長中に鷹狩に来て、 この清水を賞美したので、景勝清水と呼ぶようになったと風土記にみ える。慶長中といっても、景勝の在任は一五九六年から一六〇一年で あり、関が原戦を決する前準備として神指城を築き、武勇をならした 頃であるから、鷹狩、景勝清水の伝承の生じるのも無理がないかと思 われる。
もう一つの産清水は、恐らくその境内に観音堂が建てられてからつ