北会津村誌 -317/534page
けられた名であろうが、この湧水を利用して、占居した村の起源は、古墳がそれを裏付けているように、今より 一二〇〇〜一三〇〇年以前にもさかのぼれるものである。発祥当時の状態は、湧水に関係があったろうことがわ かる。
村中に真言宗の福聚山養泉院というのがある。下荒井村蓮華寺の末寺で、もとはその六坊の一つであったのが 天正十七年(一五八九)伊達政宗の来攻によって兵災にかかり、宥寛という僧が田村山に移したと伝える。恐ら く観音堂の建立もその前後頃かと思われる。湧水の側の住吉神社の境内にあり、名称も養泉院で、清水に関聯し 神仏混淆の修験の護ったものであろう。それで観音にちなんで産清水という名ができたのかも知れない。
現在の観音堂の建てられたのは明和二年(一七六五)八月大吉の棟札があるのでわかるが、それより古くあっ たことは、寛保三年(一七四三)七月、田村山村養泉院が、観音の来由を掘った版木を(たて二六・二、横二一 センチ)保存してあるので確認できる。観音像は昇天 されて、現在のものは大正十二、三年頃、中里の遠藤 篤太郎が奉献したもので、御丈三九センチ、石原村そ の他、その前後して、留守の御堂にしのび込み、仏像 を昇天させて荒し歩いたことがあるのは、何とも残念 なことである。
住吉神社の縁起はよくわからないが、杉の御神木も 目通り四・六メートルもある大木であるから、決して 日の浅いものではない。寛文五年の書上げに既に相殿