北会津村誌 -323/534page

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 ○壇二 村の二町三十間余丑寅の方にあり。西を灰塚と称す。高六尺、周二十間余、一は其東三十間余、石原村と入会の地にあ り。糠塚と称す。高九尺、周三十間余、東西に相対して田畝の中にあり。土民其来由を伝えず。天明中(一七八一〜一七八八)灰 塚より管の如なる青石数枚と破鏡一片を掘出す。青石は美須麻流の珠なるべしと云。

   二〇、舘    村

1、清水と館 田村山の景勝清水、産清水はあわさって祖母川、或は姥川となり、館の東で古川とあわさり、 館村を半円状にとりまく大湿原をなすに至る。現在も葦谷地が繁って、田村山と館村の間の道路まで、昔は湿地 をなしていた。その湿地を開田したものはひどろ田といい「館のひどろ田のからばのかれ、またがなければ首ま でも」とうたわれていたほどである。この東北を姥川・古川の大湿原でとりまき、西辺に掘を設けて、要害の地 として、古く館があったらしい。

 寛文五年の書上げにほ、この館の形態をやや詳しく述べて、館の形は鱗のかたちをなし、周りに堀を廻らして およそ二町五二間、民家がその中にあったという。しかしその築いた人や時代はわかっていない。現在も村北に 館の下という字があり、現在も田の真中に畑になって残っている。その周囲附近一帯がひどろ田で、昔の堀の跡 であったと伝えている。それに対して村が館の内である。観音堂は天正十六年(一五八八)の兵火のため災上、 (注、伊達政宗の来攻は翌十七年で、そのことをいうのか)再興したとあるから、下荒井の富田の城、石原の館 跡伝承などと較べてみて、葦名時代の豪族の館かとも思われる。現在ある最も古い家は十七代になるという坂内 宝宅で、長野からの来住と伝えている。正保三年保科公、諏訪大神を勧請した時の神職であったというが、古い 館主との関係はわからない。


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