北会津村誌 -332/534page
四町二十間。
○山川 蓼州、村より一町中の方にあり、宮下村の境内より来り、北に流るること一町余、和泉村の境内に入る。
○清水 村より一町未申の方にあり。周十間計、昔時蒲生氏郷夏月放鷹しで此に至り、此水を掬して其味を賞せり。因て寛永中 (一六二四〜一六四三)までは四囲に柵木をまわせしとぞ。
○古跡 寺跡、村雨にあり。貞享の頃(一六八四〜一六八七)まで此処に日根山心光寺と云曹洞宗の寺あり。其後河沼郡野沢組 藤村に移る。
○褒善 孝行者四郎右ヱ門、明和五年(一七六八)褒賞して米を与えり。二二、 和泉村および台村
1 村の離合、集散 和泉村という名が示すように、旧鶴沼川の扇状地末端の中州はこの付近までのびて、良 質の清水が湧出ていたためか、寛文五年書上げには「里民相伝て、昔此処に清水湧出る。其味他の水に異なり、 故に清酒を作る。因て之に泉村と名く」とある。
しかしその西縁は、官の下・出尻などと同じく、蓼川に鶴沼が合流して洗い削り、鶴沼川の河筋の移動も常なか ったようである。これは西部、新鶴村の佐賀瀬川扇状地の末端を洗い削った新屋敷の東経、田子薬師のある台地 より、沢田村以西につづく台地から、出尻の西端まで、およそ氾濫原の幅は一、七〇〇メートルにも達し、到底現 在の蟹川附近の大川の氾濫河幅五〇〇〜六〇〇メートルの比ではない。鶴沼川は阿久津以東で佐賀瀬川を合し、 新屋敷新田より和泉新田の西を流れた河跡がみられる。その旧縁由から、新鶴村に属する和泉新田は、和泉村の 地先開墾となり、俗に「こさあだ」と呼んでいる沢田との間にある、寛文五年頃まで橋元と呼んだ四軒、これは