北会津村誌 -340/534page

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慶長二年(一五九二}心誉と云僧此寺に任してより、本州岩城専称寺の末山となり、本尊弥陀、客殿に安ず。
    台    村
 府城の西北に当り、行程一里二十三町、家数四軒、東西二十五間、南北三十五間、東北は和泉村の端村上和泉に続き、一村の如 く、西南は田圃なり。北の方二十間余、上和泉の民居を隔て家居一軒、又其北二十間余に家居一軒あり。西二町和泉村の界に至る 其村は丑に当り一町四十間.南二十五間出尻村の界に至るり共村まで一町二十間余し
 ○褒賞 忠義者半之丞 享和元年(一八〇一)賞して米を与う。

   二三、上米塚村および中新田村

 1、米壕村地名伝承と開発時代 文化六年の新編風土記に、葦名直盛が幕内村に住んでいた時、米倉があった から米塚、中頃米丘とも書き、時代を至徳頃としてある。至徳元年(一三八四)には小田山に移り、その前に幕 内村に居たことになるから、二、三年はずれるかしれないが、既に葦名の領土下で、水田開発がなされていたら しくみえる。米塚はもう一つあるから、親村、子村の関係でなく、上、下をつけたものらしい。
 ただ応永二十六年(一四一九)には黒河川が羽黒下で決潰して対角線状に、旧鶴沼川が、安田・佐布川方面に 放流して、濁川・宮川に合流したとあるし、現在の大川が固定したのは、天文五年(一五三六)の白鬚水による 決潰以後ともみえるから、この扇状地の頂点に近い上米塚村が定住してから、旧鶴沼川が西に流れ、東に流路を 変えていることは、洪水の災害もさることながら、中州の形も変っているので、当時を想定することは容易でない。
 「鶴沼川を俗に大川という」とは新編風土記にも見えるほどであるから、旧鶴沼川が流路を変えてからも、そ


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