北会津村誌 -341/534page
う呼んでいたことはわかる。幕の内なども水害で東に移っているから上 米塚が河筋の変る以前からの扇頂中州に発達した村としても、遠かに東 寄りにあって、大川が現位置に固定し、荒れ川の河幅を拡大してくるに つれ、西に相当移動しているとみるのがよいかと思う。寛文五年、貞享 二年の書上げが、橋爪組について発見できないので、推測を出ないのが 残念である。或は村南にある熊野神社の境内附近が、旧部落位置かとも 思ってみる。天和三年の洪水に社殿が押流され、相原の熊野神社に移し ていたことがある。現在の社殿は昭和十七年に再建されたものである。 高見が原という、洪水の際、村人が避難した場所に桜樹がたくさん植え てあったというが、現在は田圃になっている。洪水の伝承は多い。
2、泉現寺と地蔵堂 白米山泉現寺という名は米塚と湧水に関聯させ た名称であると思うが、地蔵尊は玉光堂といい、宗頤という部落をつく った糟尾宗頤の守本尊で、もと宗頤町に祭ったものを寛永年中の次郎水 の洪水で堂が押流され、村民の木野左五ヱ門という者が大川より御尊体 をみつけて自分の家に安置しておいたのを、正徳元年泉現寺客殿に移し たものであると伝える。宗頤がここに村を開いたのは葦名十六代盛氏が 元亀元年(一五七〇)向羽黒に隠居した時であるから、その以後にな る。泉現寺に天正頃二五七三〜一五九一)普門という僧が住んだとある年代とあまり無理なく結べるから、共