北会津村誌 -346/534page
○水利 思いぼり堰、本郷の方より来り、田地を養水とし、下小松村の方に注ぐ。
○寺院 泉現寺 境内東西十二間半、南北十七間、年貢地、村の西南にあり、浄土宗府下徒町願成寺の末山なり。開基詳ならず 天正年中(一五七三〜一五九一)普門と云僧任して白米山泉現寺と号す。本尊弥陀客殿に安ず。地蔵堂、境内にあり、地蔵長二尺 八寸、糟尾宗頤が守本尊なりと云。旧端村宗頤町にあり、何の頃にか此に移せりと云。
○褒善 三十郎、十七才の頃府下河原町又左ヱ門と云がもとに身をうり、父の公納の滞るを償い、其身は一生奉公すべき覚悟に てよく主人へ怠らぎりければ、主人も其志を感じ、身の代をゆるし、屋根ふくことを業とする太右ヱ門と云者の弟子とせしに、能 く其業を習い得て、価も多くうけぬるに、我身の料とせず、兄弟のために田地を求め、或は親族のうち身を売りし者の給金を償い し者も四、五人に及べり。初又左ヱ門がもとに仕えし時、双親共に世を去て、孝養の尽さざるを悲み、特に仏堂をよく作り、朝夕に 拝礼し、追慕の誠を尽しけり。師の大石ヱ門にも能く事えて心を尽し、死して後は其為に石塔をたて、年忌ごとに仏事を営み、い とまあれば屡々墓に詣で、諸用あって其墓の最寄を過るには必拝しけり。其他善行多ければ、宝永五年(一七〇八)褒賞して米を 与えり。
○利兵工 山三郎、宇兵ヱ、清内、彦左ヱ門、共に人となり淳直にして能く農事を勤め、共通に委く、節倹を専らにせしかば、 財用も乏しからず、一村のうちに和順し、窮苦のものあれば五人相謀て足らざるをたすく。総て村民の営みにさわること有て、力 及ばざる者あれば、夫々に力をそえ、米金を貸与えても利分を取ることなく、緩かに返させしことを計りけり。されば一村の風俗 自ら淳撲に帰し、争論など起ること更になく、近郷も其風儀に化しければ、延享四年(一七四七)五人を褒賞して米を与えり。善 行老喜八、明和二年(一七四五)同上。上米塚村地誌並泉現寺及玉光堂之由来記
抑此村中古郷名廃絶し、近古に至りて郡名をも失い、謬って大沼郡に編入されたりし也。保科正之公乃会津に封せらるゝや、能く 放きを温ねて其謬りを正し.寛文年中復古して会津郡とせらる。而して荘を門田となし.組を橋爪より隷せらる。先日至徳年中に