北会津村誌 -347/534page
在りて、葦名直盛幕之内村より任せし時、此村に米倉ありし故村名を米丘と唱いしが、天保年中米塚文吉と云う者、此村の主宰た りし故、自然米塚と改りしと云う。今小字屋敷と唱う敷所は是米倉の跡にして、即ち又吉の屋敷跡なりと云う。其の後蒲生氏郷の 封土となるや、之れを我首祖乃小池筑後守に賜う。今家数五軒なり。
皆氏を小池と称す。此村往古は現今の居村より丑寅の方五町許りにありしが、天和年中の大洪水にて屡々水害を蒙り、村民其難を 憂いて追々今此処に居所を移したるなりとひ然るに村の中間を日光街道の横断するを以て上下の字を加えしと云う。今の社跡も其 の節移したるものにして.旧社は天和三年此大洪水にて川となりし也。此村の氏神は熊野宮にして、元壮宏なる神殿なりしも、宝 暦六年の洪水後、下米塚の八幡宮と共に同郡柏原村の伊勢の宮に移し奉る。是れ両宮共に大沼郡本郷村の宗像出雲が宮司なるを以 てなり。此村文化六年現存する家数七十六軒、端村共に村の東三町半許を隔てて、鶴沼の巨川、今の大川なり。本郷村地内より来 り流る、二十余町にして、飯寺村の境に入る。此河往古は僅に佐野村の用水堰掘なりしが、天和年中の洪水にて今の如くとなれ り。其の以前は本郷村岩崎山の麓より西に赴き、橋爪・下野両村の間を流れ北に行きて宮川に合す。河沼郡に入る。而して其の当 時の渡船場は橋爪村の受持なりしが、水流変じて此村の受持となり、平素は綱越なれ共、冬期は仮橋を架して行客乃便を計る。是 れ若松城下より日光へ通ずる街路の枢要の渡船場也。
端村宗頤町は葦名盛氏公元亀年中本郷村羽黒山に築城居城の折、此所の町を開き、典医糟尾法印宗頤と云う者之れを領せし故其の 名なりと云う。又大川端に石の宝殿あり、之れを糟尾権現と云う。其の右側を流通する用水掘を権現川と称す。本村の巳午乃方五 町十間にあり、家数二十二軒。糟尾宗恨は葦名盛氏公乃命を受け、織田信長に使えて功なり法眼に任せられる。先祖は野州の人松 浦氏なりしが、同国糟尾村を領せしに依り氏とせり。又滝沢村にも領地ありて今尚同村に法眼山の古蹟あり。
端村中新田は旧と下小松村分乃原野なりしが、寛永三年小池筑後守貞通の長子左京道利と云う者、蒲生家より其の空地を引受け、 之れを開墾せしめて田畑六万余町坪に及べり。而して此処に移住する十八軒に之れを分与せり。蒲生家其の功を賞して左京を代官 に任し、開墾地を此村に隷属せしむ。其の際蒲生家の三奉行より与えられたる制札今尚此端村の民家に在り其の文左の如し。