北会津村誌 -348/534page

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     定
大沼郡小松村の小池左京新田宿相立候御代官給人構無之者望次第罷出開作可致候、二十箇年以前爾致欠落候者、屋焼人殺致候者の 外は、御代官給人構無之罷出於開墾は異議有間敷候、御年貢之俵は三箇年作取被下御役儀末代可被成御容赦候条可得貴意候也。
 寛永三丙寅年二月四日
              外池信濃守
                福西 吉左衛門
                稲田 数馬之助

寺院白米山泉現寺は浄土宗若松徒町可山頼成就寺乃末山なり、元録元年の建築にして本尊弥陀客殿に安置し奉る。願成就寺は旧耶 麻郡五目組加納荘上三宮村加納山願成寺の移しにて京都智恩院の末山也。
浄土四流の一多念義の元祖隆寛が願成寺の開基也。隆寛は、柴田関白乃後胤少納言資隆乃三男にして、願成就寺を若松徒町に移した るは、慶長四年上杉景勝の命に依り、良翁を以て開山とす。寺領百石を賜わる。
堂手 玉光堂は奉安置地蔵菩薩の草創は、人皇五十一代平城天皇の御字大同年中徳溢大師の御作にて御尊躰長二尺八寸糟尾宗明の 守本尊の由云伝う。天正年中葦名盛氏公が本郷村羽黒山に御居城の或時.天俄に掻き塗り、閃電雷轟実に悽まじき有様となれば、 宗頤其の運気を考え天空を望み、沐浴斎戒し.荒々しく瑠璃の壷より薬を捧げ奉れば、神忽然として現れ、童子と変じて一巻の書 を宗頤に授く。宗頤別拝受して之を子孫に伝うとかや。其の後宗頤一度瑠璃の壷を開けば四方の悪病忽ち去り尽ぬとかや。是則ち 神力の然らしむる処にして寔う尊かりけり次第なら、はや宗頤故郷糟尾村に帰り死後郷人より薬師如来として祀られ水災難病を救わ せ賜うと云う。宗頤此地を去りし後は御堂も自然淋しくなり、天和三年の大洪水に玉光堂押流され、漸く菩薩の御尊躰のみを取揚 げ奉り、十王は不残流され賜う。此時由来の害も流失せし由申伝う。夫れより寛永七年迄は端村宗頤町の民家に安置し、正徳元年 に至り当村肝煎小池喜惣兵衛義徳と云う者.泉現寺客殿に移し奉るとかや。其の後義徳七代乃裔小池彦次郎(後喜八郎と改名す)


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