北会津村誌 -349/534page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

栄詮と云う者、当寺の住職善秀和尚と謀り、壇中の褒善家宇兵衛、利兵衛、与惣兵衛、彦左衛門等と協力し、村呂乃志を一にして 安永九庚年御堂の再建を泉現寺境内に経営し、地蔵菩薩乃御尊妹を誠に移し奉る。今の御堂は即ち是なり。泉現寺の大門や、塀墻 も此時同時に建設したるものにして誠可謂霊場矣。
右は古文書や俚俗の伝承を採りて掲記したる事なれば、或は彼是抵牾するものなりと雖も弁を訂正せば却て其の実を失ふ嫌なき能 ざるを以て、其の伝ふる儘を書き記したる事爾云。
 大正五丙辰年七月宇羅盆会に際して之を撰す。
            撰者 小池筑後守添貞道拾八代之主 小池徳美
            筆者 撰者之二弟河沼郡千咲之住人 同 道康

   二四、下野村、附上荒井村

 1、上荒井と下野の熊野永山福寺 旧鶴沼川扇状地の最も左端にあって、むしろ村は濁川の扇状地との裾合い といったほうがよいか知れない。古くは一面雑木林に蔽われてあったかとも思う。その名残りもいくらかあった が、今度の構造改善によって、見事な広土が拡がり、道路もつけかえられ面目を一新している。
 この地方の中心地は上荒井村であって、ここには上荒井の富田氏の城廓に以た規模の本丸、二の丸、三の丸を もつ城廓があって、天正の頃(一五七三〜一五九一)葦名の臣荒井萬五郎某が住んでいたと伝える。その土堤・ 堀跡が残っており、旧肝煎の梅宮宅は空屋敷になったが、ほぼ三反三畝歩ほどの屋敷が堀と土堤の形に囲まれて いる。その前の梅宮宅は分家で、その一は現在も神官をつづけている。その西にある旧廓内の渡辺宅は人が入れ 変っているが、もとは二反四畝歩もあった屋敷である。さらにその西に天台宗真福寺が土堤と堀に囲まれて約一


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県北会津村誌編纂委員会に帰属します。
福島県北会津村誌編纂委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。