北会津村誌 -350/534page
反ある。その北の四反歩程の現在柿畑になっている地域も土県内でこれ らを合すると、一町三反歩程になる。豪族の館跡というよりは、やや規 模が大きかったようである。この上荒井村については、現在北会津村に 含まれていないので詳述はさけるが下荒井・中荒井と一貫した関係があ り、後に文化六年の風土記の全文を掲げて参照にする。
次に北会津村の南部は旧橋爪組に属して、その中心が、濁川の西岸に ある橋爪村であるが、既に会津高田町に含まれているので、ここでは述 べないことにする。
現在北会津村の西南隅の位置を占めるのが下野村である。文化六年の 風土記には一七軒とあるが、出新田が三軒あったから現在二〇軒と、戸 数の上では変りはない。ここには天正の頃(一五七三〜一五九一)葦名 の臣荒井因幡其の館があり、土居・堀の形が残っていたらしいが、現在 確認は容易でない。やはり上荒井の荒井萬五郎などと同時代に、館を築 いて住んだと思われるが、規模は東西一九間、南北三三間とあるから、 あまり大きなものではない。
上荒井の十二天神と天台宗医王山真福寺が華蔵院の修験によって祭られていたことがあったように、下野の熊 野神社と真言宗熊野山永福寺は境内もつづいていて、共に永福寺が祭っていたから、これも修験であったろうと 思われる。文禄中(一五九二〜一五九五)頼円という僧が住んだとあるから、天正の頃の因幡其の館のあった時