北会津村誌 -351/534page
代とほぼ同じで、その頃の開村とみても、あまり 無理はないようである。ただ風土記には地蔵が本 尊として客殿に安ずとあるが、永福寺の本尊は御 丈五二センチの大日如来で、塗りかえられたのは むしろ惜しむべきである。
2、下野新田の開発 村西につづいて、出新田 三軒があった。現在は下野に含まれているが、寛 永十六年(一六三五)の開拓新田で、蒲生時代は 過ぎて、加藤も嘉明既に亡く、子明成が鶴ガ城の 西出丸改修をした年になっているが、藩の新田開発政策と関聯があると思われる。
付 文化六年風土記より
下野村 端村、出新田
府城の西南に当り、行程一里二十九町.家数十七軒、東西l一町二十六間、南北四十間、四方四圃なり。東二町二十八間、南一町 二十六間、共に上荒井村の界に至る。其村は寅に当り四町、西五町四十八開、大沼郡木組橋爪村の界に至るぐ其村は未申に当り五 町五十間余、北二町三十八開、金屋村の界に至る。其村まで三町十間余。
○端村 出新田、本村の西二十間余にあり、家数三軒、東西三十二間、南北三十四間、四方田圃なり。寛永十六年(一六三九) に開けり。
○神社 熊野宮、境内東西四間、南北五間、免除地し村中にあり。鎮座の初伝わらず、鳥居あり、永福寺司なり。