北会津村誌 -353/534page

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は梅宮舎人とて、此村の肝煎梅宮吉兵衛が家より別ると云伝う。世々此村に任し、其子孫修験となり、華蔵院と号し、当社の別当 なりしと云。寛文の頃、華蔵院が娘峯野と云えるに、府下南町鈴木兵左衛門と云うものの二子をあわせ、伊賀時得と号して、此社 の神職となりき。今の伊賀常信は其五世の孫なりと云。
 ○寺院 真福寺、境内の東西十三間、南北十一間年貢地、村西にあり。天台宗、開基の年代詳ならず。旧は徳正寺と号す。寛永 八年(一六三一)火災に罹り堂宇焼亡せり。其後観行と云再興して医王山真福寺と改め、郭内延寿寺の門徒となり、本尊弥陀客殿 に安ず。
 ○古鏡 館跡、村中にあり、本丸跡東西三十間、南北五十間、二之九跡東西四十二間、南北二十八間、三之丸跡東西三十四間、 南北三十間、皆土居堀之形存せり。天正の頃、葦名の臣荒井万五郎某と云者居りしと云。或は荒井左京之助と云もの居とも云。今 民屋となれり。又本丸より東南に的場の跡あり。
 姥子屋敷跡 村西二町三十闇にあり。今田圃を開く。青いつの頃にか此所に老媼二人ありて往来の者を留め、石を枕として臥せ しめ、其眠るを伺い、石槌にて打殺せり。今此村に長さ一尺五寸、幅一尺、厚さ四寸許の石あり。即彼枕にせし石なりとて、枕石 と云。石槌は下小松村にありしが、今は失いしとぞ、此頃一人の牧童ありて「荒井小松にやど取りやるな、石の枕に槌一つ」と謡 いしにより、旅人其害あるとさとり、放て媼が家に宿するものなかりしとぞ。彼童は鎮守神の化神なるべしと云伝う。
 ○旧家 梅宮吉兵ヱ 蒲生氏の時より相続て肝煎役を勤むと云伝うれども世系詳ならず。家に蒲生、上杉、加藤時代の水帳を蔵 む。又蒲生氏の時出せし訴状を持伝う。其文如左。
 謹上 上荒井村百姓迷惑仕候
 惣高四百五拾七石、此内百五石永荒、残而毛付三百五拾弐石に付而物成三つ九分成に相済申候、氏郷様御代、越国御代当御代   之さように御指出し上申候、今度之給人衆
一、百姓之女子御とり上被成侯て、百玉石之永荒をおしこみ、四百五拾七石に付て五つ二分物成に相とられ申候、迷惑仕侯。


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