北会津村誌 -356/534page
だのによると伝えている。村の東北に比丘尼屋敷と伝えているのがある が、文化六年の風土記にも「如何なるものにか、詳ならず」とあるほど で、単なる伝承かも知れない。
濁川に沿う低湿地であるが、開拓が進んで一時三〇数戸にも達したこ とがあると伝えている。村中の道路をはさんで、南北二組に分れて争い 南側が敗北したという。それに関係した清兵衛という人の名が伝えら れ、墓も子孫も残っている由である。文化六年頃には既に九軒になって いた。現在開田が進み、戸数も農家一七、非農家二の計一九戸に増して いる。
村に新しい菅原天神が祭られているが、棟札に「地神社昭和十五年十 二月八日 社掌梅官常信」とあり、傍に「別雷皇神社」があるが、これ は昭和三年とある。廿三夜供養塔には宝暦六年(一七五六)のや寛政六 年(山七九四)のもあるから、村中から新旧寄せ集めて祭ってあるらしい。
付近の谷地・湿地の古い景観をしのぶものに、後庵野栄宅に二間に九尺の御殿と呼ぶ一間がついている。何時 の頃かわからないが、若殿様が二代ほど、かも、きじなどの鳥狩りにお出になり、そのお休み部屋になっていた ので、そう呼んでいたという。殿様の御狩場として附近八町四方が殺生禁断の地域になっていたという。今構造 改革によって谷地の排水路などが構築されているが、湿原植物の堆積している状態がみえる。複合扇状地の据合