北会津村誌 -357/534page

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いの湿地景観のほどが思われる。この宅は戊辰の役の際の宿にもなったと伝えている。

付 文化六年の風土記より
    金屋村 端村 西後庵
 府城の西南に当り行程一里一十六町、家数十三軒、東西一町三十間、南北五十八開、四方田圃なり。東三町五十六間、上荒井村 の界に至る。其村まで五町、西五町五十八間、西後庵新田村に隣り、其村際を界とす。南三十八間下野村の界に至る。其村まで三 町十間余、北八町四十八間、下小松新在家両村の界に至る。下小松村は寅に当り十町三十間余、叉戊亥の方五町三十六間、北後席 村の界に至る。其村まで七町五十間余。
 ○端村 西後席、永正の頃(一元〇四〜一五二〇)比丘尼後席と云者任せしとて、村の丑寅の方を今に比丘尼屋敷と云伝うれど も如何なるものにか詳ならず。困て未申の方四町二十間余にあり。家数九軒、東西一町三十間、南北四十間、西は西後席新田村に 連り、三方田圃なり。
 ○原野 秣場二、一は村北一町三十間にあり、東西四町余、南北十間、一は村より未申の方三町三十間余にあり、東西一町余、 南北三町二十間。
 ○寺院 願行寺、境内東西十三間、南北十二間、年貢地。村中にあり。金屋山と号す。本郡南青木組北青木村善龍寺の末山、曹 洞宗なり。開基詳ならず。慶長の頃(一五九六〜一六一四)円寿と云僧任せりと云。本尊釈迦客殿払安ず。
    西後庵新田 小名 北新田
 寛永の頃(一六二四〜一六四三)金屋村の端村西後庵の農民助左ヱ門と云者聞きし所なり。今の肝煎鈴木平右ヱ門と云もの其末 葉なりと云。府城の西南に当り行程二里、家数四軒、東西三十七間、南北二十間、四方田圃なり。東の村際にて金屋村に界う。其 村まで五町五十間余、西三町四十一間、大沼郡本組新堀村の界に至る。其村まで十一町十間余、南十三間、大沼郡本組橋爪村の界 に至る。其村まで八町十間、北五町五十九間、北後庵村の界に至る。其村まで六町五十間余、又辰巳の万一町三十間、下野村の界


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