北会津村誌 -360/534page
真などでもよくわかるように、松野の東を廻って、西麻生の南側、時には北側を流れた。その河跡が湿原のはん のきなどを主とする雑木林によって、まだよく描き出されている。恐らく今度の大構造改革によって、これらの 面影も一新するであろうと思う。
古麻生という名が示すように、最初はその南岸の段丘上に村づくりがなされ、開拓が進むにつれ、その北岸の 中州にも発展していったものと思われる。
麻生という地名については、西の柳津麻生からきたと伝えている。古麻生に落着き、西麻生にゆき、やがて東 麻生にものびたのであろうが、旧鶴沼川が宮川と合流する広い氾濫原の開拓が進むにつれて西に麻生新田ができ 天満はむしろ対岸佐布川の地先を開墾した新田であろうかと思われる。古麻生の西に大島及び大島新田ができ、 その名の如く、大きな中州に住みついた村であろう。明治初年の大字統制で麻生と大島とあわせて麻島という名 ができ、大島に周囲の村々から引き宮して麻島神社ができると、また麻生と大島の関係が密接になり、流路の変 遷、逐次の中州開拓、新田分村のため、こんがらがりが出 て、周囲の村人は勿論、村内の人々でも、その来由系統が 混同し易いほどになっている。東麻生などは、西麻生から 河跡の湿原をさらに越えて、中央の大中州に移ったが、そ れが反って中荒井組に属する結果にもなっているようであ る。2、古麻生の如意山宝幢院 俗に古麻生ともいうが、文 化六年の風土記には古屋敷といって、西麻生の端村取扱い