北会津村誌 -361/534page

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になっている。新しく発展した西麻生が二九軒にもなって、ここに肝煎がいたのに、古麻生はその半分にも満た ない一二軒であったから、そうなったのかとも思う。
 しかし西麻生には旦那寺はなく、古麻生の宝幢院が、これら一連の麻生を檀家に持っていた。真言宗の下荒井 蓮華寺下にあり、古くは修験が司っていたと思われる。永禄四年(一五六一)俊意という僧が再興したとある。 これとどう結び得るか明確でないが、大島村の南の古麻生分に、上人壇と書物壇という大小二つの壇がある。こ の詳細は他項で述べるが、上人が生埋めになり、三日三晩土の中に鐘の音がして、高田より若松の城下に通う人 々がこれを聞いて供養のため、袂や前垂れのようなものにまで砂を運んできて盛りあげ、今のような壇になった という。大正の末頃までこの壇に自生した樹木を切ると疫病になるといわれて、誰も切る者がなかったそうであ る。近年盗掘された跡がみえる。
 寺院には大日如来が祭ってあるが、御丈五八センチの立派なものであるが、来由はわからない。
 麻島神社については大島村の項で述べる。

 3、麻生新田の開発 旧鶴沼川・濁川・宮川の合流する氾濫地域で、元和以来の藩の施策による。一連たる開 発新田である。時代は寛永二年(一六二五)で、加藤嘉明が会津に来封した翌々年、鉱山開発・道路改修などを 盛んに行なった頃に当る。河筋はほぼ現位置に固定していたと思われるから、西麻生の地先を、高田組の境野村 から出て開いた、麻生の分村ではなく、地先開墾に類するもののようである。文化六年既に一三軒に達してい た。

 4、天満の開発 文化六年の風土記にまで天満は佐布川天満として高田組に属している。恐らく河筋が変って 天満の東を流れていた鶴沼川が西へ移ったが、佐布川村の地先を開墾したので、佐布川村に属するようになった


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