北会津村誌 -362/534page
かであろう。開発年次は明らかでないが、麻生新田と同じ頃か、やや後れた頃であろうと思われる。寛文五年の 書上げには四戸しかなく、明和三年.(二七六六) になって漸く六戸、それが幕末までつづくことになる。
天満の地名の来由については次のような伝承がある。昔越後国の野村天満の染師が、毎年ここに来て、村東に あった清水沼で染布の曝しをやっていたが、やがて定住して天満の部落をなしたという。その染師亀吉屋敷とい うのがあったらしい。元治元年(一八六四)惣右ヱ門に地首を仰せつけられた文書があるが、扇状地の清水の湧 出地か、旧河跡の沼地ででもあったろうが、今はない。天満と名づけてみたら、同じ名が城戸村にもあるので、 佐布川天満としたとある。恐らくその地先開拓村であろうと思う。それで佐布川組に属し、鎮守も佐布川の諏訪 神社で、その氏子として参籠した。現在は麻島神社の氏子である。寺も佐布川の曹洞宗円通山観音寺下にある。 寛文五年の頃の四戸には、鶴沼川畔に二戸、東の清水沼付近に二戸と散在していたらしい。
明治二十二年の町村制施行の際、鶴沼川の東にあるがために、川南村に編入され、これが現在北会津村になっ たわけである。河道の変遷と村の境界の移り変りを示している。今も佐布川村分に水田が三町二反、畑一反一畝 あり、橋を渡って他部、他村へ耕作にでかけていることになる。旦那寺は勿論佐布川にある。付 文化六年新編風土記より
西麻生村 端村 古屋敷 出新田
旧は端村古屋敷の他にありっ後家居を此に別ち、旧地を端村とし、古屋敷と名けしが、中荒井組に同称の村ある故西の字を加え しと云。府城の西に当り行程一里十二町、家数二十九軒、東西二町六間、南北二町五十間、四方田圃なり。東一町三十間、柏原村 の界に至る。其村まで七町余、西十一町四十二間、大沼郡高田組佐布川村の界に至る。其村まで十一町五十間余、南六町二十八間 北後庵村の界に至る。其村は未に当り八町二十間余、北二町四十五間、本郡中荒井組今和泉村の界に至る。其村まで十四町、又亥