北会津村誌 -364/534page
の及ぶべきにあらず、何方にも再嫁して身をたてば、幼きものの為にもよからんと懇に諭しけれど、つな肯はず、一たび夫婦とな りし身の、夫の病重きを見て出ゆくべき理りなし、其上二親と夫の飢に及び給わんこと浅間しく、二人の幼き者のゆくゆく人とな りなば、かかる苦はあるまじければ、心、づよく思いたまへと慰め、さらに家を出る心なし。されば舅姑もあわれをかけ、実子より も親しかりしとぞ。享保十九年(一七三四)つな及び安左ヱ門を賞して共に米を与えり。忠義者はつ、此村の農民左兵ヱ妻なり。 宝暦二年(一七五二)米を与て賞せり。
二八、柏 原 村
1、神明神社由来 柏原という村の名が示すように、旧鶴沼川扇状地の中州の雑木林を開拓してできた村であ ろう。村東を、旧河筋を追うて通じている思い堀が流れている。古くはこの村端れまで現在の大川の洪水の氾濫 が押しょせたことがあるか知れない。その低い崖に臨んで、村東に神明神社の境内の森がある。四周を土獲で石 垣で積みあげているのが、氾濫地の神社境内の様相を示している。
もとの柏原の鎮守は伊勢宮とある。本郷町の宗像出雲が司っていた。神明はその伊勢神明という意味であろ う。寄せ宮、相殿にして柏原に下米塚・上米塚・新在家・松野・中新田を併せた六ヵ村からいろいろの神が合祀 されてきた。下米塚と下米塚新田から明神二座がきているが、神明といい、明神といい、霊験あらたかなただ有 難い神様という意味で祭ったのかも知れない。家の神、屋敷神には、稲荷神社などとともに多く祭られている。
ここにやはり下米塚村より移したという腰王神というのがある。越しの神と通じ、阿賀野川流域、最上川流域 などに多くみられる神で、会津でも喜多方市の腰王神社を筆頭にして、東山その他に見受けるが、阿賀野川に沿 うてのぼり、次は大川に沿うて下米塚までたどりついた、裏日本系統の信仰のはいってきた匂いがする。こしは