北会津村誌 -368/534page
濫で村も西に移っていると思われるが、その ような伝承も聞いてない。
2、下米塚新田の開発 旧鶴沼川流域から 離れた新田開発としては新しく、寛政二年 (一七九〇)の出新田である。西部地域の元 和以後の一連たる新田開発とは趣きを異にし 上米塚にも出新田があるが、これは旧鶴沼川 の河跡の河原開墾で、比較的後期のものであ るが寛永三年(一六二〇)で、下米塚新田よ り遥かに古く閲発されている。
3、川原町 二日町の渡し場は、中荒井村 のもので、深川村を通って、柳原町口か川原町に出たが、高田下町より古麻生・松野を経てこの川原町に出、対 岸の幕の内から材木町の住吉神社わきに出る通路があった。東麻生・下米塚方面から川原町方面に行くのに専ら この川原町渡し場を用いていた。城下若松の商人などもよく通ったという。高田橋が新設されてからも、明治末 年に農家に大八車が普及してからは、この川原町に出て、堤防を通って、三本松へ出たという。ここに五軒ほど の渡しの宿場のような並びが出来た。渡し場はなくなったが、付近が砂利採集の一拠点になったり、河原開墾も すすんで、三本松と並んで、渡し場でない、新田開発村ができ始めている。
4、二日町との境界壇 これは二日町の項に詳述したが、中荒井村より二日町南の渡し場に通じる旧道の北側