北会津村誌 -369/534page

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に並ぶ四つの壇、古くは八つ壇とも呼んだものがある。この境界争いの古地図は下米塚の区長預りとなって残っ ている。近年のものとしては慶応二寅年(一八六六)四月二十五月の文書などが、古地図にはりつけてあるのを 見受けた。

付 文化六年の風土記より
    下米塚村 端村 出新田
 府城の西に当り行程一里八町、家数四十七軒、東西二町六間、南北一町十七間、四方田圃なり。東七町五十三間高久組幕内村の 界に至る。其村まで十五町、西四十五間、南二町二十四間、共に柏原村の界に至る。其村は申に当り六町余、北九町二十五間、本 郡中荒井組二日町村の界に至る。其村まで十町十間余、又戊亥の方四町三間、本郡中荒井組中荒井村の界に至る。其村まで十一町 余、辰の方八町、本郡南青木組飯寺村の界に至る。其村まで十九町二十間余。
 ○端村 出新田、本村の北五町にあり。家数九軒、東西五十間、南北四十間、四方田圃なり。寛政二年(一七九〇)に開けり。
 ○山川 清水、村北四町二十間にあり。東西三十八問、南北六間、宝暦七年(一七五七)洪水のとき田圃を決せし跡と云。
 ○水利 思いぼり堰、相原村の方より来り。田地の養水とし、中荒井村の方に注ぐ。
 ○寺院 観音寺、境内東西六間、南北二十間、年貢地、村中にあり。古堂山と号す。府下大和町金剛寺の末山真言宗なり。天正 中(一五七三〜一五九一)黙蔵王と云僧草創せり。其後堂字廃壊せしを、寛永元年(一六二四)長賢と云比丘中興し、観音を本尊 とし各殿に安ず。観音堂、境内にあり。
 ○褒善 忠義者与右ヱ門、延享二年(一七四五)米を与て質せり。貞節者ゑむ、此村の農民左吉妻なり。寛政十二年(一八〇〇)同上。


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